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『 今は昔・瓶詰めされた思念 』 ー ダニエルさんの憂国の随想



 六年ほど前に東京で行われた台湾民政府のレセプションで初めてお会いしたダニエル・グティエレス氏からエッセイを送っていただいた。ご本人の自己紹介としては「平成3年から日本在住のスペイン人随想家」です。
ダニエルさんは国際政治ばかりでなく哲学、文学にも詳しいというか、そちらの方こそが専門家のようだが、純日本人会の勉強会でスペインの歴史とか文化とかを話してくれないかと持ちかけたら「ヨーロッパの静かなる侵略」と題して話してくださった。その時の動画のアドレスはこの案内文の下に張付けてあります。

 ダニエルさんとはその後も何度かお会いしているが、現代世界に大変な危機を感じておられる。「静かなる侵略」と言うのは大衆を欺き、言論を支配しての侵略であり軍事的に表立ってではない。

侵略者とその勢力は政府や政治家、世の有力者、メデイアを取りこんでいるが、その国の政治や言論が侵略者に支配されているなら、政治家や言論人は真実を言わない。
そして現実世界の不可解な出来事を「静かなる侵略」を仮定して分析すれば色々な事が見えてくる。しかし非侵略者側は黙っていれば、茹でガエルのように徐々に死んで行く。

 ダニエルさんとはその後も何度かお会いしているが、現代世界に大変な危機を感じておられる。「静かなる侵略」と言うのは大衆を欺き、言論を支配しての侵略であり軍事的に表立ってではないが、 「静かなる侵略」を言えば、それに対して「静かなる侵略」の証拠は?エビデンスは?陰謀論だ!と言う人がいる。人は嘘を吐くと言うことを否定すれば、政府はそんな事を言ってない、新聞テレビはそんな事を言ってないとなる。

現代は世界規模で侵略者によって大衆は茹でガエルにされている。今必要な言論は人は嘘を吐くものだと言う事を前提にして、仮説を想像し、推理する事が不可欠である。推理するには想像力や人間的感性、ある程度の知識が必要だ。

言論が侵略者に支配されている状況下では、既存の有力メデイアや政府発表を離れて多面的な確度からの分析が必要で、そういう意味でダニエルさんのエッセイは 大部分の 政治的関心の希薄な日本国民に警鐘を鳴らすものだと言える。

このエッセイはチョット難解なところがあり、ダニエルさんご本人は『 計画通りのほとんどの人類の退化ですね。もう少しラディカルな内容で書きたいぐらいだったのだが、なるべく人の反感をかわないように書きました。そして、できるだけ分かり易く書きました。それでも「難しすぎる」という意見もありました。』と仰る。でも難解ではありますがこのメルマガ、ブログの読者には一読されることをお薦めしたい。


【 You Yube 動画 】
「ヨーロッパの静かなる侵略」①、② ダニエル・グティエレス氏 於:あてな倶楽部平成27年1月18日

https://www.youtube.com/watch?v=yLFlsP-581A
https://www.youtube.com/watch?v=c81XxsCtGFo&t=1845s



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                                『  今は昔・瓶詰めされた思念  』


 前から気になっていた老舗旅館で泊まることにした。そういう類の宿に良く見受けられる光景だが、休憩する場所や薄暗い一角に当地と縁のある作家が執筆した作品がたくさん並べてあったので、風呂上りなどの際、目を通していた。

黴の匂いを漂わせる書籍の茶色いページを捲ってみると、何かにかじられたような箇所もあれば、花札のようにバラバラになってしまいそうな部分もあった。旅館の経営者が代わればきっと捨てられてしまう運命の全集だが、それでもこの一冊一冊は軽視できない智慧の底知れぬ井戸。古典と言っても僅か六十年前ぐらいまでこの辺りをぶらぶらしていた人間が思いついた事だ。現代に生きている我々には何の役にもたたないものであろうか。否、過去の良い作品には必ず今でも耳元に囁いてくれる霊が宿っている。

そもそも、自分と同じ環境に生きている人間のみと関われば世の中の偏った見方しか持てない。人間の脳の発達は他人と触れ合うことによって行なわれたものだから、遠ければ遠いほど違う世界に生きた人の脳波の刺激は我々に新しい光を与えてくれる能力があるはず。私もその本につられ、自分の部屋に戻って冷蔵庫から午前中に買った四合瓶を出してからこの文書をしたため始めた。女房は隣で静かに寝ている。

                          *

 他の人と違って、哲学者や芸術家の場合はとっくに死んだ後でもその作品を産んだ心境は昨日の事のように鮮明に私達に届く。もちろん、かの時代に旅をさせてくれる想像力と洞察力や感応も必要だが人間はまだ根本的に変わっていないので、だれでも共感できるところが多い。ただ人間はまださほど変わっていないのにも関わらず、現代においてはむりやり人間が本来生きる環境をどんどん変えようとしている傾向が見受けられる。しかし、根本的に人間は変わっていないからこそ、健康に生きるための条件も(精神的な条件も含め)変わっていない。この件において、新常識も旧常識もないわけだから、最近の環境では当然山ほどの不満や悩みが派生する。例えば、20 世紀の文豪のさまざまな発想を起した経験を現代に再現してみようとしたら、どうなるか。

 岐阜と長野にまたがって育った島崎藤村が書いた『春』の冒頭は仲間の集まりを描いている。「新常識」ではシュールレアリスムや空想科学に属する場面か。雪国の或る宿では、川端 2 世を目指す作家の卵は駒子に惚れたりしないはず。可憐な八重歯やえくぼを見せるあの素敵な笑顔が強要された覆面に隠れては・・・もっともっと北上すれば、太宰治の末裔は久し振りに津軽に帰り、友人と以前のように懐かしい丘で酒や蟹を抱えてピクニックをしようとしたら、断られる可能性が高い。石川県の泉鏡花が創作した『高野聖』や『夜叉が池』に生きる妖精は、スマホを手放さない人に感知できるだろうか。

昔の「太陽族」と呼ばれていた連中の子孫と言えば、蝋色の肌をして光線も通らない各々の部屋の中に一年中同じ温度で暮らしている。谷崎潤一郎の牧岡姉妹をマネしていた彼女らは近所の批判の眼を恐れて、京都の花見へ行かなくなったため、粋な着物は細長い桐箱の中のままになっている。騒々しい街では耳を澄ましても樋口一葉の弟子にはもう遊郭の琴の音ねが聞こえない。萩原朔太郎などの詩人を苦しませたような激しい恋の煩いはどこにも感じられない。
別世界への扉を開けてくれる 銀(しろがね)の鍵、軽い歩調で通るべき砂金の路は何処(いずこへ)? すがすがしい朝に目覚める時や眠れない夜に 苛(さいな)まれる度に、創作に欠かせないミューズをどこで求めようか。夥しい放送、点けっぱなしのテレビ、一日中作動している監視カメラ。思考に欠かせない落ち着いた環境も見付かり難い。しかし文芸の精を殺すと、人間の精神の大きな支えの一つが失われ、人生の苦しみから抜け出すのも困難になる。

 「今の状況はあまりにも違うから、昔の思想などはもう役にたたない」、「私が生まれる前の事は関係ない」、「哲学や宗教は実用的でない」、「そんなくだらない物を読む暇がない」などなどと思われがちなのだが、果たしてそうなのだろうか。二千五百年前に海の向こうの春秋時代に生きた老子によって編纂されたと推定される『道徳経』に次ぎのようなくだりが認められる。「禁止・制約が多いほど、民の生活は貧しくなる」。

地球の反対側では百五十年前のドイツでニーチェという有名な哲学者は『ツァラトゥストラはかく語りき』の中でこう書いた。「彼らにとって、病むことと疑うことは罪である」。本当に今の我々と関係のない話なのだろうか。今は昔・・・と言いたいのだが、とにかく焦らずに検証してみよう。

 小生のような愚老は気に入った人達に手を貸したり、あるいは助けてもらったりして、喜怒哀楽たっぷりの人生をかみしめて、しみじみと楽しんできた。得意気にその秘訣を伝達するなどと偉そうな事は言わないが、徒然のあまりにヒントに成り得る何点かを挙げてみたい。皆様は自分の都合に合う部分だけを摘まんで頂ければ幸いだ。

 人間らしさ、人間としての幸福は決してネットを通して得られるものではない。ネットやITの道具では本当の交流・共感が生れない。そもそも人間は一人でいるために出来ていない。どんな状況であろうと。親戚や友人はもちろん、恐れずに人と直接触れ合って、違った意見違った世界観を持つ人と会話をしよう。でないと、文化と愛情のロマンが消えてしまうばかりか、社会自体が崩壊する。画面に用意された選択肢だけで人生を決めてはいけない。圧迫されている環境から離れないと、個人の発想が育たない。相手の都合で人に会えない時に家で苛々したり、落ち込んだりするのではなく、山に行ってみよう。渓流の側にしゃがんで、綺麗な水を飲む。短い区間でも裸足で歩いてみれば、大地の温もりを感じる。地球も生きている。伝説の仙人のように霞を食べるわけではないが冬に貯まった朽葉を踏みながら、空気に混合するさまざまな薫香を吸引すると、妙にエネルギーが体中を循環する。自分が抱えている問題は小さくなる。山が遠いなら、単なる森でも海でも良い。近所のあてもない散歩だけでも、運動しながら脳が活性化する。

 さて、そうすると今までの社会の原理を次から次へ壊されていく世の中で希望を持って生きる方法があるだろうか。先に結論を言うと、「ありますが、常に相当な努力が必要です」。他人がなんとかしてくれるであろうという生き方では状況が悪化するばかりだ。原点に戻って、今までの哲学者や文豪が照らしてくれた道をたどってみよう。そして、人間共通の本来の社会構築法。

 少し前までの人間の楽しみ方・悲しみ方の底には「人情」、「温もり」、「尊重」、「慈悲」、「信頼」などという概念が籠っていた。これらのどの言葉を選んでも人と人の間の関係の重要性を示している。孤立した状況は人間の本質にそぐわない。自分が損しても、家族や友人を優先する。そんな時に利害関係を考えずに私達におかれた信頼を裏切らない気持ちが働く。これは霊長類と他の動物との大きな違いだ。人間であり続けたいなら、永遠に失くすべきでない感情だが、必ずしも周囲の意見に乗るという意味ではない。相手を完全に理解しなくても、仲間として受け入れることは可能だ。上記のいくつかの言葉が表す気持ちが常に心に育てば、根本的な対立がない限り、違った意見の相手であっても良好な関係を築くことが可能であり、最終的に健全な社会の成立に繋がる。昔の文豪の集いの場面を読んでみれば、互いにどんなにきつい意見を交わしても笑い飛ばし、仲良しでいられたと伝わる。ところが、今ならああいう風に本音を言ってしまうと、口を利いてくれなくなる原因になりかねない。冗談にしてもそうだ。ヒューモアを受け止めてもらえる場が狭くなり、妙な「過剰配慮」が進む中で、自分の意見さえ言いだせない人も増えている。

  2019 年に山極寿一氏が脱稿した『スマホを捨てたい子どもたち』に見逃してはならない氏の見解や観察結果がたくさん含まれている。
ゴリラなどの霊長類の研究を通して、生物としての人間のあり方を考察している書物であって、その中に「人間は本来、他者に迷惑をかけながら、そして他者に迷惑を掛けられながら、それを幸福と感じるような社会の中で生きていく生物です。迷惑を掛けることで絆は深まる」と書いてある。「他人に迷惑を掛けたくないから」という思いによって一人で悩んだり苦しんだりしている人はどれだけいるだろうか。昔から良く言われるように、「人間はお互い様」だ。遠慮せずに悩みがあったら人と相談しよう。それこそ社会というものだ。氏いわく「すべて一人でなんとかできるのであれば、社会は生まれていません」。

「政治や宗教の話をするな」という定義は戦後から日本教育界に広がったが、言い換えればこれは単に「技術の進歩を楽しんで、深く考えるな」と言っているような唯物主義的な人生観で、明かに間違った方針だ。先ず、科学と技術の違いを捉えるべきだ。科学の奥にその科学者の心理が潜んでいる。逆に技術にはなんの気持も含まれていないため応用する人の世界観によって、どんなに便利な物でも人生そのものを脅かす危惧になりかねない。

もし技術に投資している人達が危険な思想の持ち主であれば、どうなるか。あるいは莫大な利益をもたらす有害な発明なら、果たしてその開発は禁止されるのだろうか。科学には科学者の心理が宿っているからこそ、公平に人のためになる科学とインチキでない宗教は対立しているのではなく、違う方法で世の中の現象を説明しているに過ぎない。哲学もそうだ。そして、人と人をつなげようとしている。

本来の科学も宗教も哲学も議論と経験によって発達してきた。宗教と科学の共通点について、石川県生まれで、京都学派の宗教哲学者であった西谷啓治は先駆け的な思想家であり、彼は「科学と宗教」の問題は現代の人間としてもっとも根底的な問題であると説いていた。科学者の道徳に関する興味深い話だ。他方、西洋に於いて近代物理学と道教などの東洋神秘思想との類似性について約半世紀前に別の観点から書かれた『タオの自然学』(フリッチョフ・カプラ著)も是非お勧めしたい書籍だ。原子物理学と古典東洋思想の驚くべき共通点を述べている力作だが、素人にはやや読み辛くても努力する甲斐がある。

ちなみに、科学はさておき道教や神道は人が天地と調和する生き方、自然に則った生き方を示す 古(いにしえ)の伝統であるが、東西を問わず現代社会でも決して無駄な智慧ではない。神道や道教もそうだが、どの宗教でも(むろん、インチキな新興宗教は別として)永遠に有効である智慧が発見できる。例えば、仏教には平生業成(へいぜいごうじょう)と言う表現がある。意味は「生きている内に、目的を達する」だそうだ。いま解決しておかねばならないものは次世代に残すなという認識が必要だ。更に、同じ仏教でも「あやまったものを求めるというのは、自分が老いと病と死を免れることを得ない者でありながら、老いず病まず死なないことを求めていることである」という事実も説いている。

 本来の政治も「人のために社会を良くすること」であったが、段々「一般人が損しても、権力者の利益を守る」ための道具になってきている。その結果が今は議論を失くしたい独断論社会(十分な根拠と明証なしに一定の説を主張するもの)がものすごい勢いで進んでいる状態だから誠意のある政治家はほとんど生き残れない世界になった。

法のために人があるのではなく、人のために法があるという根本的な基準が潰されそう。よって、巨額な税金が絡むと次から次へ人の健康や環境に悪影響を及ぼすものが許可される。そして、多くの政治家や公務員は科学者や哲学者ではなく、経済学部出身あるいは法学部出身のため、科学の領域になると誰が選んだか分からない「知識者」の話を鵜呑みにする。例えば、日本では人の健康管理に対する指示を出す今の厚生労働大臣は法経学部卒業。医学の「イ」も分からない人。文部科学大臣といえば、商学部卒業。科学の「カ」も分からない人。ちなみに、第二次世界大戦の後に行われた疑問の多いニューレンベルグ裁判の中に負けた方の「指示に従っただけ」の公務員や軍人の責任も問われたが、それはやはり道徳は個人個人と関係ある概念だからだ。今でも通用するので、政治と科学の関係に関して、最後に昭和初期の娯楽小説の王者であった海野十三が『十八時の音楽浴』の中である独裁者に言わせているセリフを引用したい。

 「科学が政治を征服することは絶対にありませんが政治はいつも科学を征服しています。科学者が要るのは始めてのうちだけです。ここまで来れば、後は運用するだけです」。

 現在のメディアに関しても似たような事が言える。ハリウッドなどの映画で見られるように、昔のメディアの役割の一つは権力者や政府の横柄な振る舞いを牽制(けんせい)することだったのだが、あいにくこの頃は客観的な立場を失いつつ株主の利益や補助金ほしさによってながしている内容が左右される。メディアが掲げる「真理」に異論がある人に対して糾弾や検閲もやむを得ない雰囲気が作られている。溢れる「情報」の信憑性を常に問うべし。大事にされてきた言論の自由は大きな危機に直面している。分かり易く言うと、権力を握っている人達がその影響力と利益を失くしたくないがゆえに生じる状況だが、意外とそんな当たり前の事に気付く人は日に日に減っている。そして、対立は面倒だから、重大な問題を先送りしてしまって、適当に過ごしていく。しかし、各国政府の公式発表だけを元に世の中を論評すべきなのか。全ての政府に隠し事がある。その理由を推定するのは市民の当然の権利だが、やはりニーチェが書いたように「病むことと疑うこと」は罪と見做(みな)されているようだ。ちなみに、もう一つの人間とその他の動物の大きな違いと言えば、前者だけ自分で自分を騙すことだ。

 残念ながら現代社会あるいはこれからの社会に関する議論をするなら、新型肺炎の現象を避けられない。新しいウイルスの出現は決して世界が経験した事のない現象ではない。ここ半世紀の出来事を振り返るだけでも 1980 年前後にAIDSが現れてからさまざまな病気が次から次へ出回って、多くの犠牲をもたらした。地球上に相次いで新たな病気が出回る(自然か不自然な方法かは別として)。ただし、今回の新型肺炎によって同時にかつ世界規模で各国がかってない処置を幅広く押し付けられたり、強要されたりする事実こそ新しい現象だと言える。そして、病院が患者の治療を拒むような無慈悲な対応も初耳だ。
ただし、その強いられている処置にはどんな矛盾が暴かれても従わなくてはいけない雰囲気が形成された環境も新しい事象かと言えば、そうでもない。日本では記憶に残っている年配は少なくなってしまったのだが、まさに戦時中の典型的な社会構成だ。私達は今まさに戦争、心理戦争の真最中にいる。目を逸らしたり美化したりしてはいけない。恐怖を元にしたあの様々な処置の長期的な結果として、人間は利己主義と孤立に更に速い勢いで向かっていくだけでなく、人生を楽しむ事さえ御法度扱いにされかねない。

 戦時中の日本では「贅沢禁止令」があって、「ほしがりません、勝つまでは」というスローガンが使われた。さて、今はどうだろう?当たり前の生き方をしたい人の周りに江戸時代の捕り手のような掛け声が聞こえてくるようだ。「御用!御用!」。安全な距離を保ちながら、相手が心理的に疲れるのを執念深く待っている。劇場などで皆と同じ感情になって、感動するなんてとんでもない。人と人を繋ぎ、強張った顔をほぐす会話や皆での飲食は最大の敵。祭りの開催も断念。家族や友人から助言の一言も聞き入れようとしない人は上司や行政が個人の時間の使い方に口を出しても嫌がらずに頷く。仕事をする時以外は自分の部屋から出ないで、人と話さないなら正に受刑者なみの生活ではないか。黙食?黙浴?ところが、沈黙は伝染病のようでもあり、力を吸い取る。有史以来そうであるが、なんらかの病気に感染するリスクはむろん、常にある。何をしてもそうだ。だからと言って、また伝染病患者に対する偏見や差別の悲しい歴史は繰り返されるのだろうか。緊張したまま生きるしかないのだろうか。慣れるまでは「一時的な事だ」と自分に暗示をかける人もいるが、慣れたら、お終しまいだ。孤立した人間ほど操り易い存在はない。この傾向は数十年前から始まったが、昨年からのウイルス対策で恐ろしいぐらい加速した。

 リスクを背負うなんて、馬鹿らしい。自分より愛し得る人がいない。得するなら、人を裏切るのを何とも思わない。友達?面倒臭い。むしろ、他人を必要としないことを自慢する人もいる。インターネットは人間を繋がなかったばかりか、むしろ引き離してしまった。親戚や同僚の不幸より、知らない人からの絵文字や「いいね」が気になる。妬みなどを理由に告げ口する人は英雄気分になる世の中。これは進歩なのだろうか。ウイルスでなければ、テロや戦争。このままだと、市民の「安全」を名目に常に監視されても、少しずつ私権が奪われても反対する人があまりいなさそう。ところが、団結のない社会では、実際に誰も守ってくれない。諦めるべき「新常識」なのだろうか。しかし、これが望ましい現在なら、なぜ日本では自殺者の数が多いのだろうか。なんらかのワクチンで治せる状況ではなさそう。まさにオルダス・ハクスリーが九十年前に書いた『素晴らしい新世界』は迫ってきている。要するに、条件反射教育によって反応する人情を失った人類。そうならないうちに、その失われつつある人間性を戻すためには熟慮しよう。人間の原点に戻る時期だ。所詮、木炭も金剛石も同じ要素で出来ている。

 常にさまざまなリスクを覚悟した上で人生を楽しむのが 古(いにしえ)からの習わしだ。特に若い人こそ今までそういった智慧や常識を直感的に本能的に身に付けた。過保護に傾きやすい親や社会を軽蔑し、喜んで危険に飛びついて来た。単なる反抗的な気持ちもあれば、若さ特有の優越感からの動機もあった。そして、むろん、愛する人のためなら何でもしてきた。リスク・ゼロを求めた人は人生の美徳に反し、少なくとも仲間外れの目に遭っていた。

「滑るから危ない!」と怒鳴られても、やはりぬめぬめした飛び石を踏んで、川を渡った。「二度と口を利いてくれないかも知れない」と思いながら告白に挑んだ。殴られる可能性を覚悟した上で、喧嘩を止めてみた。ボラれる危険があると知りながら、あやしい店に入った。人の話や経験からではなく、自分の肌で学びたい。こうやって強い人格が育ってきた。そして、ある程度年をとると、自然に家を出て、不透明な未来に飛び込んででも自由に自己の判断力を元にして生きてみたい憧れをたいがいの人が感じた。同じように何かが強要されると、反感と疑いも胸底に湧いて、反射的にと言ってもいいぐらい自己の権利を守るために闘うのは当然だと感じられた。そもそも、進歩は好奇心と疑いと異存から派生する。しかし、今はその精神は消えてゆくようだ。親の過保護体制を厭わないで、主流の方針をも疑わない種族が確実に増えた。

 実に恐ろしいのだがたくさんの人が一斉に何かを信じると簡単に煽動(せんどう)されてしまう危険がある。なぜなら、落ちる時にみな一緒に落ちるからだ。多くの人が正しいと思っている事でも、そこには何か罠が隠されているかもしれないと自覚すべきだ。まわりの圧力に押されて、緊張や動揺から怯える小動物のように身体をこわばらせ、自信を持って自分の意見を発することができなくなる人が増えている。その結果、主導権を奪われる事態だ。逃げるために、小さい事、当たり障りもない事だけで頭をいっぱいにする。ピンポイントで知りたい事だけ端末で紹介してもらう。ところが、文化と本来の教育が忘れられた状態なら「知りたい事」は宣伝が流し込むネタのみ。宣伝は売りたい品物を売るための道具だけではなく、その宣伝に金を掛けている人達の優位を確実するためのものでもある。

人の心を巧みにくすぐり操って、自分の利益を大きくしようと企む人間が世の中には必ずいる。その当たり前の事に気付かないと、情報と宣伝の区別ができない危険性がある。こんな状況の中では独立した哲学、歴史、科学などに目を向けるのは難しい。溢れている余計な宣伝の山に埋もれて、こちらから積極的に探さないと、目に入らない智慧になっている。大きな図書館に足を運んで、ページをめくるだけでも世界が変わる。年配の方なら、おそらくレイ・ブラッドベリー著の傑作『華氏 451 度』を御存知かと思う。こちらも是非若い世代にお薦めしたい書籍だ。これを読めば、なぜ本が人生に欠かせない物なのか、そしてなぜ独裁国家は印刷されたもの(内容を変えられないもの)の読書の習慣を失くしたいのか簡単に分かる。秦の始皇帝の時からの普遍的な行動だ。

 幸せな人生を送るには精神の糧(かて)になる芸術(自由に生まれた芸術)が必要であり、体を大事にすることも必要だ。身体と精神は一つだ。食べ物が必要だが、お腹に何かを入れるだけでは足りない。身体は食べたものでできている。これを忘れて、自分の趣味にあてる金を減らしたくないからどうでも良い物を食べてしまう人には是非考え直して頂きたい。味の問題だけではなく、健康そのものがかかっている。野菜や果物を多めに採るのは重要であるが、その他に食事をする環境によって気分が左右される。先ほど話に出た山極氏いわく「人間の社会は食べ物を運び、仲間と一緒に食べる」ことから始まった。そして、さらに重要なのは「共食をないがしろにしている現代は社会や文化を崩壊させる方向に進んでいることに他なりません」。こちらから例を上げなくても皆様は心当たりがあるに違いない。

 愛もやはり共通の経験で維持される。相手もこちらが好む味を好む。一緒に苦労した事がある。同時に喜んだり笑ったり泣いたりした。互いにその肌の温もりで落ち着く。唇の感触を知っている。子のために共に頑張る。そして、最期が近づいても、この腐りかける身体を優しく撫でてくれると信じる。画面を通して知り得る気持ちではない。人と人の間の距離を増やす事で愛情は消えてしまう。ちょっとした意見の対立がすぐ気に障る。些細な点も「赦せない」態度に化ける。疑惑の相が急に現れる。江戸時代では、無理矢理離された恋人同士は背中合わせに縛られて街中を見せしめとして回される罰の危険を冒してでも駆け落ちしていた。それは愛の本来の姿。理性や美化した屁理屈で抑えられるものではないはず。病気などを恐れて寝室ですすり泣きながら恋人に会えない人の心は果たして本当の愛を知るのだろうか。また、会いに来ない相手はどうだろうか。

 街から姿を消して、何を信じれば良いか分からない若い人はどこにいる?一人暮らしで、手弱女(たおやめ)の朱莉は男子の誘いを無視して、土日は部屋に籠って、誰も食べてくれない可愛い菓子作りで気を紛らせる。絵美は職業で欲求を充たそうとし、親の家の 2 階での壁いっぱいが無数の小鳥や猫の絵の部屋で、ネット配信の芸能人の姿に夢中。夜は無魂の人形が侍る寝台に潜って、ぼさぼさ頭の側に有害な電波を発する最新のスマートフォンを寝かす。何から何まで気に障る良太は子供の頃からゲーム中毒のため目を悪くし続ける。彼女がほしくて仕方が無い悠斗は公務員宿舎で抑えても抑えきれない性欲に負けて、アダルト・サイトから離れない。枯れる前に彼等を連れ出すのが社会の急務だが、落ちてしまった悪循環から抜けられる武器を与えないと失敗と絶望に導くだけだ。日本では「病は気から」という素晴らしい言葉がある。病気というものは気のもちようで重くなるものだ。

 幸せには幸せの連鎖があると同じように、不幸には不幸の連鎖がある。不幸の連鎖にはまってしまうと、なかなか抜け出せないが最終的に自分で頑張るしかないと分かっていても自分の持つ歯車だけを空回りさせるのではなく、別の歯車を持っている人間と組むと相乗効果の力が期待できる。

まず、自分がなぜ幸せになれないかということを自分で理解しなければならない。人の眼を気にし過ぎていないか。お世話になった人や家族・友人と定期的に連絡を取っているか。自然に逆らう生き方をしていないか。冷房の使い過ぎで体を悪くしていないか。夢を持っているか。不要な物に拘っていないか。我慢しすぎていないか。執着しているその考えは自然に自分に生まれたものか、それとも植えつけられたのか。陽の光や人の温もりを避けていないか。東西のものを問わず、哲学の本を読むと独自の思想が育つのだが、いくつかの例で紹介したように単なる小説にも自分の人生を良くするあるいは世の中を理解するヒントがたくさん隠されている。

 人間の心理状態は日常生活の中で見るもの聞くものによって、引っ切り無しに変化していく。そして、人間の感情は極めて単純であると同時に極めて複雑したものであるため刺激の多い現代ではよほどの練功した人でないと常に不安定だ。ただし、一日中部屋の四つ壁に囲まれている人と、時々自然の景色を見に出掛ける人の心理状態は全然違う。旅は決して不要ではない。良い物を食べて、太陽の光を浴びて、綺麗な空気を吸って、それなりの運動で身体が育つ。これはどんな病気に対しても一番良い予防薬だ。自然な方法で自分の中の免疫力を高める必要がある。時間をかければ、どんなウイルスにも大半の人類が自分の力で対応できる。ただ、精神も育たないと不十分だ。文芸は生き甲斐のある道を促し、主流が目を逸らしそうなところに光を当てる役割を果たす。昨年からどの国でも「不要不急」の表現を耳にたこができるぐらい聞かされた。

文芸は果たして、それにあたるだろうか。文学はもちろん、一人で楽しむ文芸だが、「もっと勉強して下さい」、「本を読んで下さい」と言う薦めをメディアではあまり聞かない。演劇、映画、歌舞伎、演奏会は逆にさびしいネット配信ではなく、教養のある大勢に囲まれてこそ楽しめるように工夫された芸術だ。当然、健康の不安定な方は別だが、マスクなどの効果を信じるなら、自分を歩く爆弾扱いせずにそして他人を恐れずに小屋に足を運ぶのは差し支えがないはずだが・・・この薦めも聞かない。宗教の話に戻ると、祭も伝統を継承するための行事であると同時に、人と人を繋ぐ役割を果たす。ものによって、宗教家にとって義務であり、どんな事情であろうと失くしてはいけない。テレビ、ネット、ゲームなどだけで精神を育てよと言うのだろうか。内容をいじられ、検閲しやすいネット配信と違い、本来の確固たる文化が提供するものは他でもなく、それぞれの生き方に潜んでいる「思想」と「智慧」だ。

 これから文芸や哲学の道を歩みたい人なら、先ず論証と言論の自由のために闘ってほしい。若さは余裕がある時のためにとっておけるものではない。諦めずに人生の旅をし続けて、首尾よく願望を成就させて下さい。そして、劇場、旅館、飲食店などが眼の敵にされる今はその経営者は私達の親、兄弟、隣人である事実と共に、あまりにも有名なマルティン・ニーメラーの約八十年前の言葉も念頭に入れた方がよさそうだ。いわゆる、自分が迫害されている集団の関係者ではないから、恐れつつもその状況を見て見ないふりしていたら、今度は自分が迫害対象になった時に声を上げてくれる人はもう誰もいなかった、と。

 半世紀前には寺山修司らによる「書を捨てよ、町へ出よう」と言う作品があった。もちろん、私は「書を捨てよ」と言わないが、「町へ出て」自分の体でものを体験するのは重要だと考えている。言い換えれば、禅で称える「理性を使わない、直感や経験による知識」を体得すること。何を信じれば良いのかと迷ったら、先ず自分の身体を信じて下さい。身体や精神に嫌な反応を起こす物は良い訳がない。今なら、あの作品の題名を「液晶画面を蹴って、町へ出よう」に変えるべきだ。そしてニーチェに戻ると、「掟を破る者こそ、創造者である」。我々一般人は一日中画面を見つめ誰かが何かをやってくれる事を期待しながら「元に戻らないかな」と呟くだけで、世の中は良い方に変わらない。残念だが、次から次へ来る波を適当にかわしながらなりゆきに任す生き方はもうできない。人生は終りの無い戦いだ。でないと、なにもかも奪われるはめになる。「面倒くさい」と思ったら、人間は何一つ出来ない。この状況を変えられるのは自分だけだ。それも、くよくよせずに朗らかに笑う表情で。誰かと。難しい世の中になりつつあっても、暗い顔で臨んではいけない。身体のどんな病気よりも精神の破壊が恐ろしいし、取り返しのつかない可能性が高い。霊魂が先に死ねば、身体だけ生き続けても意味がない。

 これを読んだ君が同感してくれなくても私は憎まない。そして、自分が間違っているかも知れないので、できれば理屈の通る反論がほしい。ただ、そんな余裕がないなら、面倒でも次の人のためにもう一度この手紙に封をして流れに戻して下さい。

                *

 女房は全然起きない。良い風呂の効果に違いない。カーテンをそっと開けて旅館の窓から輝く青白い名月を暫くの間、眺めた。都会ではこんなに綺麗に見えない。実際に、どれぐらいの人がまだ月を眺める習慣を持っているだろうか。窓ガラスの左上の角に一匹の守宮(やもり)がいる。透き通る灰色の腹の奥にピンクの臓器が鼓動している。飽きないなと思いながら飽きてしまって、書いた原稿を丸めて、輪ゴムで絞めた。そして、空になった純米酒の瓶に入れようとしたが、首が細くて一苦労だ。やっとできた。欄干に停まっている蜘蛛を脅かさないように別の窓を開けたら、葉ずれの寂しい音が鼓膜を撫でる。海が遠いこの宿だが、窓下に川が流れているので勢いよく瓶を投げた。前にも何度かその時の思念を瓶詰にし、流したことがあるがどうなったか分からない。好し。今回のものは割れた音がしなかった。後は好奇心と勇気のある人が拾ってくれるだけだ。


                                        ダニエル・アギラル

                                        令和 3 年 9 月


 
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