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教科書採択の年に当たり考えること その6       

『新しい歴史教科書をつくる会』の同志からのメールです。

                        栗原茂男

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   教科書採択の年に当たり考えること その6         ・・・文明と文化 / 自由社こそ圧倒する教科書を!・・・

吉田松陰先生がなぜ、渡米を試みて、米軍艦に近づいたのか?

これについて、日本の歴史家はあまり多くを語らない。語ることは松下村塾で優秀な人材を輩出した・・とか、尊皇攘夷がどうの・・・・の話ばかり。

ちょっと待って欲しい。松蔭先生の渡米意図は明らかに、文明次元の行動ではなかったか?

西洋社会の現実を知らずして日本の明日もない。ならば松蔭先生自らが先兵になってアメリカという文明社会を見てやろう!という意識ではなかったか。

松陰先生の話にしても、観点を変えれば、もっと大きな人材を育てる教育的視点がある筈だ。松陰先生を小さくとらえず、もっと世界に売り出すべきだ。

それがないがゆえ、最近この手の本に心が向かなくなった。松蔭先生のこころは、すでに世界へと広がっていたものと思われる。教育者はこういう発想で幾らでも若者のこころを発奮させることもできるではないか。

織田信長にしても、あの楽市楽座・・・・・これこそ日本型資本主義の原型ではなかったか。つまり時代を同じくして、日本と西洋は見えないところでつながっていたと見れば、日本の歴史はもっと普遍性を帯びるのではないか。こういう箇所の表記は文明的視点をもった方の力も借りるとよい。

もし信長が長生きしていたら、たぶん日本の歴史は様変わりで、江戸時代の長い太平の時代もなかったかもしれない。これは歴史の if とかの大げさなものではなく、ちょっと頭をひねれば、誰もが素朴に考え得ることである。

織田信長の存在意義はとてつもなく大きいのである。

我々の頭もあまり文化、文化・・に拘泥しすぎると、発想までもが小さなスケールにはまってしまうのではないかと危惧する。

あの松下幸之助翁でさえも、いつの間にか“(経営の)神様”にしたてられてしまった。なんで現代にも未来にも通用する人物を、簡単に神様にしてしまうのだろうか。松下翁の本を読むと、明らかに文明人の発想が感じられる。

彼の葬式で、ブッシュ(シニア)大統領から寄せられた弔文には、松下氏には“成功に伴う、より大きな使命と責任のこころが在った”という最高の賛辞が寄せられていた。いまどき、海外の元首からこんな言葉を贈られる

日本人がいるだろうか。この言葉は英語で

「The larger obligation and responsibility (that) success brings.」となっている。

この言葉に何の感動もなかったマスコミは、要するに 役立たず ということだ。

松下政経塾の卒業生(の殆ど)も同じである。それは不作為でもある。

このままだと、そのうち 三島由紀夫大人までもが神様に祀り上げられてしまう。

そうなったとき、三島氏の云いたかった真のメッセージは寸断され、単なる文人(かつ武人)の一人で終わってしまう。それは我が国の歴史的大天才を見殺しにするようなものである。もったいないというか、大罪である。

三島由紀夫大人の行動には、戦後日本社会の浮かれっぱなしの原罪を一身に引き受ける覚悟とメッセージがあった。ある保守派知識人は彼の自決を振り返り、「あのグロテスクな所行にコメントする気にもなれない・・・」という暴言を吐いた。私はあまりに情けなくて言葉も出なかった。ときどき『正論』に登壇されるが・・・。

そこで提案であるが、今後のつくる会教科書の発想に、もう少し文明的次元のことを考え、反映してはいかがだろう。それこそ現実にもっと接近してくるのではないだろうか。

いや、それよりも、もっと他社教科書との違いを明確に打ち出せるかもしれない。

こういう次元は、実は脳味噌の軽い教育委員であっても、自由社の教科書のほうがはるかに時代をリードしているね・・・・と堂々と賛同できるのではないか。

つくる会も発想の大転換をしてはどうかという提案である。そのためには他社教科書を“圧倒”する内容でなければならない。

そのためには文明を毛嫌いせず、文明・文化を両軸で考える柔軟な思考に切替えることが必要となる。単なる文化人では限界がある。

これはまさに「一即多」の世界であり、逆も真なり。ここに真の日本精神がある。

文化、文化・・で通すことは、どうも本来の日本精神ではないように思われる。

それは特殊文化である。

日本精神は本来“おおらか”である。古事記に記された神々の世界にしても、なんというおおらかで、至微至妙、広大無辺の世界であることか・・ここには狭い日本列島という世界をはるかに超えているではないか。

歴史教科書を紐解いても、こういう章で教育委員も中学生もゾクゾクさせる内容、表現でなければならない。

もし日本精神を世界に広げよう。遠い将来、日本の精神が世界に影響を及ぼし、(真の意味での)和の精神を地球に定着させるべきだ、という気持ちを抱くならば、そろそろつくる会教科書こそが脱皮し、左右を問わずこの運動に糾合させることをも考えてみるのも意味があるのではないか。

(*そう云えば、西尾先生が『WILL6月号』でニセの「和の精神」を批判している)

この世界に踏み出せば、教育委員会やマスコミに巣食う蛆虫どもまでを教化できるのではないか?・・・という夢を見た次第。

この趣旨は公民教科書も含めての話である。

市販本が楽しみです。

 三多摩 浜田拝

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